
あなたの部屋の鍵を開けた 流しに茶碗がひとつ 伏せてあった 「身寄りのない方は」って 医者はカルテを閉じながら 治療費の話を先にしたらしい あなたはそれを笑って話した 紙コップのコーヒーを啜りながら 絶望に浸る暇もなかったと 泣く場面を取り上げられたんだと おかしそうに でも少し怒っていた 葬式は誰が手配する? 退去届は?ガスの解約は? ……ひと通り話し終えたあと あなたは静かに言った 「未練はないよ 何も残してないから」 「いなくなっても 誰も困らないだろ」 そんなこと言わないでよ あなたは私の大切な人だよ 残せたものなんか数えなくていい あなたがいた それだけでいい 紙コップのコーヒーが冷めていく あの時間が 私の人生の一部だった 仕事も別に頑張ってなかったと 昇進試験 三回落ちた話を 自分で笑いながら言うあなたの 目の奥だけが笑ってなかった 人の記憶に残ることなんか 何もしてこなかったと言った 冷蔵庫の半分のマヨネーズみたいに 使い切られないまま終わるんだと 「好きだ」と言われたあの日 私は黙って首を振った あの沈黙が あなたの輪郭を 歪めたのかもしれない あの想いを受け入れられなかった それでも あなたは私に電話をくれた 多くの人の記憶に残ることが 生きた証だとは思わない 楽しいことばかりじゃなかったけど あなたと過ごした時間は 嘘じゃない 生まれてきた意味はあったのかなって あなたは天井を見て言った たぶん うまく返せなかった 本当に伝えたかったことは いつも病室を出てから浮かぶ 受け入れなかった私が今 「大切な人だ」なんて ……都合がいいのは わかってる 合鍵を預かった日から 覚悟はしていたつもりだった でも いざこの部屋に来ると 洗濯物がまだ干してある 退去届は私が書く 電気もガスも止めてみせる あなたの茶碗を洗って 最後のゴミ袋を縛る この世界に何も残せなかったと あなたは言ったけど 私の胸に消えない部屋がある あなたが暮らした跡がある 窓を開けたら 風が通った あなたの匂いが薄くなっていく ……ありがとう 友人でいてくれて

