
『タンスの角に小指をぶつけてしまってな』 酒場の炎に 老いた顔が揺れる 刻まれた皺には 幾つもの古傷 欠けた杯を 静かに置いて 老兵は 重い口を開いた 昔は お前のような 冒険者だったのだが タンスの角に 小指を ぶつけてしまってな ドラゴンのブレスにも 私は耐えた 吸血鬼の王の剣戟にも 打ち勝った 巨人の棍棒を 盾で受け止め 死霊の呪いも 祈りで払った だが夜明け前 明かりなき部屋で 茶色い影が 静かに待っていた なぜそこにいる なぜそこだけ固い なぜ私の足は そこを選んだ 足先から 雷鳴が走り 声にならない声が 喉の奥で竜になった 魂だけが一瞬 隣の部屋まで逃げた まさか お前は 真にこの世界を 支配する者だというのか タンスの角よ 昔はお前のような 冒険者だったのだが タンスの角に 小指をぶつけてしまってな 剣は抜ける 盾も持てる だが今は 靴下さえ怖い ドラゴンよりも 吸血鬼の王よりも 家具の角こそ 世界を統べる 膝に矢なら まだ語れた 肩に傷なら まだ誇れた だが小指だ タンスの角だ 吟遊詩人も 歌いにくい 私は床に 膝をついた いや 違う 大地が私を 迎えに来たのだ 家族が聞いた 大丈夫なの 私は言った 今は話せない これは敗北ではない 戦略的撤退だ これは怠惰ではない 患部の保護だ ゴミ出しも 買い物も 今日だけは 頼んだぞ 若き者よ 昔はお前のような 冒険者だったのだが タンスの角に 小指をぶつけてしまってな 剣は抜ける 盾も持てる だが今は スリッパさえ怖い ドラゴンよりも 吸血鬼の王よりも 家具の角こそ 世界を統べる 若き者よ 夜中に歩くなら まず足元を 照らしてゆけ 老兵は 杯を取った 昔は お前のような 冒険者だったのだが タンスの角に 小指を ぶつけてしまってな

