第3章 緋の遺言 人類最終防衛ラインの夜が明けても、王都に朝は来なかった。焼けた石壁も、崩れた矢楼も、血の跡も、そのまま光の下へ晒されていた。悲鳴は消えたが、代わりに低い呻きと、土を掘る音と、名を呼ぶ声が城塞で続いている。 Red Hood は王宮の回廊から外縁を見ていた。遠く、防衛ラインがまだ燻っている。連絡橋を落とした感触が、まだ右手に残っていた。 助けたかった。 それでも切った。 そして灰狼の王は、それを見透かしたように笑った。 「眠れぬか」 背後からの声に、少女は振り返った。最後の女王が立っていた。侍女も護衛も連れていない。白い髪は昨夜よりも疲れて見えたが、背筋は折れていなかった。王冠はかぶっていない。それでも王であることは隠しようがなかった。 Red Hood は慌てて膝を折ろうとしたが、女王は軽く手を上げてそれを止めた。 「今はよい。おまえは、昨夜ずいぶん働きました」 「……申し訳ありません。おばあさま。起こしてしまって」 「起きていたのは私の方です」 女王は回廊の外へ目を向けた。 「昨夜は、よく守りました」 その言葉に、Red Hood の喉がきつくなる。 「守れませんでした」 思ったより、声は固かった。 「北門の避難民も、連絡橋の後衛も……」 「わたしは、切りました」 女王はすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、風に混じるほど小さな声で言う。 「守る者は、いつか必ずそういう夜を迎えます」 Red Hood は唇を噛んだ。その言い方が Sly Wolf の言葉と近く、胸の奥がざらついた。 「……あやつも、そう言いました」 女王の目が、静かに細くなる。 「灰狼の王が」 Red Hood は頷いた。 「母も同じ顔をしていたって」 「守るために切り捨てたって」 「Basket は覚えているって」 そこでようやく、女王の眼差しが変わった。それは驚きではない。覚悟を決める者の顔だった。 「そうですか」 「ならば、もう隠しておけません」 女王は Red Hood へ向き直る。 「ついて来なさい」 「今夜は、おまえが知るべきことを話しましょう」 王宮最深部へ至る道は、華やかさと無縁だった。絨毯は途切れ、白い壁はむき出しの石へ変わり、窓も灯りも少なくなっていく。王の住まう城というより、墓所へ下る通路に近い。古い封印扉を、女王は自らの血と王印で開いていった。 最後の扉の先にあったのは、封緘室だった。中央には Basket の底面にぴたりと合う窪みを持つ石台。周囲には古文書箱と祭具、記録束、銀釘。古い誓いがまだ息をしているような部屋だった。 女王は石台を示した。 「それを、ここへ」 Red Hood が Basket を置くと、女王は言った。 「この箱は、ただの遺物兵装ではありません」 「王家守護の継承を刻む棺であり、鍵であり、証人です」 「The Scarlet Matron が最後に閉じたものが、この中にある」 「遺書も」 「戦地報告も」 「王命書も」 「そして、おまえがまだ知らぬ“あの夜の代価”も」 Red Hood の指先が冷える。知りたい。だが、知ればもう戻れない気がした。女王はその揺れを見抜いているようだった。 「怖いですか」 正直に答えるなら、怖かった。狼軍の前に立つ時と違う種類の怖さだ。刃の恐怖ではなく、真実の恐怖。知ったあとでは、今までの自分のままではいられないと分かる怖さ。それでも、Red Hood は目を逸らさなかった。 「……知りたいです」 女王はかすかに目を閉じる。安堵とも、痛みとも取れる息をひとつ吐き、それから言った。 「なら、開きましょう」 その瞬間、封緘室の外で鋭い鐘が鳴った。一度。二度。三度。ただの報せではない。侵入警戒を告げる、地下区画専用の短鐘だ。 Red Hood は反射的に Basket へ手をかけた。女王の表情が険しくなる。扉の向こうで、駆けてくる足音。次いで、近衛の声。 「陛下! 王宮内郭に Ash Veil の侵入です!」 「地下導路から侵入の痕跡あり! 封緘室の封鎖を急いでください!」 Ash Veil。 Red Hood の背が冷える。昨夜は煙の向こうにいた連中が、今夜は王宮の奥、この封緘室まで来ている。 女王は一瞬だけ扉を見た。それから迷いなく Red Hood へ向き直る。 「間に合ううちに開きます」 「でも、敵が……」 「だからこそです」 女王の声は細い。だが、王命そのものみたいに揺らがなかった。 「敵もまた、これを恐れているのでしょう」 「奪うためか、壊すためかは知りません。ですが、知られては困る何かがこの中にある」 「だから今夜、開かねばなりません」 Red Hood は息を呑む。女王と Red Hood の血が石台へ落ちると、古い文字が赤く灯った。Basket の金具が外れ、だが今度は武器ではなく、記録庫として開いていく。 現れたのは、深紅の封緘、戦地報告書、王印で封じられた書状、そして銀糸で巻かれた二枚の金属板だった。その板には、扉と同じ古い文字が刻まれている。 「それが……」 「双緋封印」 「王家に伝わる、対狼封印術の記録です」 部屋の奥で、どこかの扉に何かがぶつかる鈍い音がした。近衛の怒号。金属の擦れる音。Ash Veil が、確実に近づいている。それでも女王は、石台の前から動かなかった。白い指が、深紅の封緘の下にある戦地記録へ降りる。 「よく聞きなさい、Red Hood」 その呼び方が、今夜は少し違って聞こえた。まだ Scarlet Hood ではない。けれど、もう子どもでもない者へ向ける響きだった。 「おまえの母は、あやつを倒せなかったのではありません」 「半分まで、届いていたのです」 「だからあの子は、死に際に未来を残したのです」 Red Hood の心臓が、どくん、と一度大きく鳴った。女王は金属板のうち一枚を持ち上げる。そこには、狼の胸を貫くような紋が刻まれていた。しかし対となるはずのもう一枚は、紋が欠けている。片翼だけの鳥みたいに、不完全だ。 「双緋封印は、本来二つで一対」 「おまえの母は、北壁陥落の夜、この第一の封印を Sly Wolf に刻みました」 Red Hood は息を忘れていた。 「第一の……封印」 「ええ」 女王の目が、遠い炎を見るように揺れる。 「だが第二の封印までは届かなかった」 「母は致命傷を負い、あやつもまた深く傷つきながら、生き延びたのです」 封緘室の空気が、さらに重くなる。 「Sly Wolf は不死身ではありません」 「けれど、人の武器と通常の致命傷では討ち切れない」 「だから王家は、古くから対狼の封を伝えてきた」 「そしておまえの母は、その半分をあやつに残したのです」 Red Hood の視線が、無意識に自分の Basket へ落ちる。鋼の箱。銀の刃。母の形見。その内側に、初めて見る記録と未完の封印。 「じゃあ……母は……」 声が続かない。負けたのではない。届いていた。半分まで。その言葉は、まだ胸の中で形にならない。 女王は、深紅の封緘へようやく手を伸ばした。血で閉じられた、一通の遺書。The Scarlet Matron が最後に残した声。 「ここから先は、あの子自身の言葉で知りなさい」 外で、また激しい衝撃音が響く。封緘室の扉を守る近衛たちが、敵を食い止めているのだろう。Ash Veil が迫る。真実は、今この瞬間にも奪われかけている。そのさなかで、女王は封を切った。 赤い封蝋が割れる小さな音が、Red Hood には昨夜の砲撃より重く響いた。 女王は開かれた遺書を見つめ、ほんの一瞬だけまぶたを伏せる。次に顔を上げたとき、その目には、王としてではなく、母を失った娘の娘へ真実を渡す者の痛みが宿っていた。 「これは、あの子が最期に私へ託したものです」 Red Hood は息を呑む。指先が、わずかに震えていた。封緘室の外では、金属が砕ける音がした。敵は近い。もう時間は長くない。それでも今夜、この言葉だけは失わせてはならない。 女王は静かに読み始める。 「――わたしは守るために、多くを置いてきました」 女王の声は静かだった。だが、その一行が封緘室の空気を変えた。 「――正しいとは言いません」 「――正しかったと、誰かに許してほしいとも思いません」 「――それでも、わたしは王家の前から退くことができませんでした」 Red Hood は息を詰めた。その文の運び方は、どこか自分に似ていた。言い訳を探しながら、それでも引き返さない者の言葉だった。 女王は読み進める。 「――北壁の夜、わたしは二つを同時には守れませんでした」 「――退路を分ければ、どちらも潰れると知っていました」 「――だからわたしは、陛下の退路を守ることを選びました」 「――多くを置いて、王統を先へ送ることを選びました」 指先から血の気が引いていく。橋を落とした夜の感触が、また掌に蘇る。 女王は目を伏せたまま、さらに続けた。 「――あの狼は、わたしにも囁きました」 「――王冠は嘘だ」 「――女王は滅びを引き延ばすだけだ」 「――おまえは嘘のために血を流しているのだと」 女王の声が、そこでほんのわずかに掠れた。 「――それでも、わたしは知っています」 「――王冠が完全な真実でなくとも」 「――人が明日まで生き延びるための灯であることを」 「――嘘だとしても、守らねばならぬ嘘があることを」 Red Hood の喉が熱くなる。Sly Wolf が投げた毒を、母も同じように受けていた。そのうえで、立っていたのだ。 封緘室の外で、激しい衝撃が扉を震わせた。近衛の怒号。短い悲鳴。Ash Veil はもう目前まで来ている。それでも女王は読むのを止めなかった。 「――わたしはあの狼に、半分の錠を打ちました」 「――双緋封印、そのひとつを」 「――けれど、二つ目までは届きませんでした」 「――わたしの赤は、そこで尽きました」 石台の上の金属板が、かすかに赤く脈打つ。まるで遺書の言葉へ応じているようだった。 「――もし娘がこの赤を継ぐなら」 「――どうかあの子を名で縛らないでください」 「――Red Hood として歩き」 「――自分の意志で Scarlet Hood へ辿り着かせてください」 女王の声が、さらにひとつ深くなる。 「――名を受け取るだけでは足りません」 「――誓いそのものになった者だけが、残る半分へ届くのです」 「――あの傷へ、あの狼の奥へ」 「――わたしが届かなかった場所へ」 Red Hood はもう、遺書から目を逸らせなかった。 「――娘へ」 と、女王は最後の一節を読んだ。 「――おまえがわたしを許さなくても構いません」 「――だが、どうか自分の選んだ赤を憎まないで」 「――守るために切った夜も、おまえの誓いの一部です」 「――いつか、おまえ自身の意志で、その続きを終えてください」 読み終えたあと、しばらく誰も声を出せなかった。封緘室の奥で、燭火がひとつ揺れる。遠くで鉄が打ち合う音だけが、現実を繋ぎとめていた。 Red Hood はようやく、小さく言った。 「……母は」 言葉が詰まる。 「わたしが、同じことをするかもしれないって……分かってたんですね」 「ええ」 女王は遺書を閉じた。 「だから名で縛らなかった」 「だから、道だけを残したのです」 石台の脇に置かれていた戦地報告の束へ、女王が手を伸ばす。一番上の紙には、焼け焦げた指の跡があった。 「次は、記録です」 「おまえの母が最後の夜に、実際に何をしたのか」 「王の言葉ではなく、戦場の言葉で知りなさい」 女王は封を割り、報告書を開く。 「北壁第四防衛段、陥落」 「退却路分断」 「狼軍主力、灰王自ら出現」 「The Scarlet Matron、女王退路確保のため単独残留」 読み上げられる文は乾いていた。感情が削ぎ落とされているぶん、かえって凄惨だった。 「その後、敵主力との接触」 「対狼封印術、第一式行使」 「対象に封印痕確認」 「術者、右胸部貫通。失血過多」 「封印第二式、未遂」 「対象、深手を負うも撤退」 Red Hood は目を見開いた。 「撤退……?」 「ええ」 女王は報告書から顔を上げた。 「おまえの母は、あやつを退かせたのです」 「討ち果たすには至りませんでした」 「ですが、あの夜、あやつを王都から退かせた」 少女の胸の奥で、何かが音を立てた。母はただ倒れたのではない。ただ敗れたのでもない。王都を、女王を、次の夜を、その命と半分の封印で繋いだのだ。 女王は石台の上の不完全な金属板を指先でなぞる。 「この傷は、今もあやつの中にあります」 「普段は灰と狼の力で覆われ、外からは見えない」 「ですが消えてはいない」 「第一の封印は、まだ生きている」 「じゃあ、残りの半分を……」 「そう」 女王は静かに頷く。 「それが、おまえの戦いになる」 封緘室の扉が大きく軋んだ。留め金のひとつが、砕ける音を立てた。 「陛下!」 外から近衛の叫び。 「Ash Veil が内扉まで来ています!」 Red Hood は反射的に Basket へ手を伸ばく。だがその前に、女王が最後の文書を差し出した。 王印で封じられた、未開封の王命書。封蝋の中央に、王冠と赤の紋が並んでいる。 「これも、今渡します」 「こんな時に……?」 「こんな時だからです」 女王の眼差しに迷いはなかった。 「奪われる前に、おまえへ」 Red Hood は王命書を受け取る。封を切ると、中の羊皮紙には古い筆致で、短く、しかし重く記されていた。 The Scarlet Matron 戦死の後、称号 Scarlet Hood を空位とする。 次代の守護者にその名を授けることを禁ず。 その者が自ら誓いを完成させ、Scarlet Hood へ辿り着く時まで、王家は待つものとする。 また Basket, Relic Armament of the Scarlet Oath は、その継承が完成した時にのみ真価を開き、双緋封印の第二式を許す。 最後に、女王自身の追記があった。 これは母の願いであり、王の誓いである。 次の赤は、継ぐのではなく、辿り着くものとする。 Red Hood は、その一行を何度も見た。継ぐのではなく。辿り着く。あの夜、女王が告げた言葉が、ようやく全部繋がった。名を与えなかったのではない。名へ届く道を、母と女王が二人で守っていたのだ。 扉が破られた。 灰が雪崩れ込み、黒布の影が低く滑る。 Ash Veil。 短刃と煙玉を抱えた潜入部隊が、封緘室の空気そのものを汚すように広がった。 「記録を奪え! 封印を焼け!」 その声に、Red Hood の中で何かが定まった。 昨夜までは違った。守るために切るしかないと分かっていても、その切断はただ痛みだった。だが今は違う。 母も同じ夜を歩いた。同じ痛みを抱えた。それでも逃げなかった。半分まで届き、残りを未来へ託した。 ならば、ここで引くわけにはいかない。 Red Hood は Basket を開く。鋼板がほどけ、深紅の内張りが閃き、長銃身と銀刃が一息に形を成す。記録庫から武装へ。遺された声から、継ぐべき刃へ。 最初の Ash Veil が飛び込んでくる。Red Hood は銃床と銀刃を続けざまに振るい、女王へ向かった影を斬り落とした。 「一枚も触れさせない!」 煙が広がる。だが Red Hood は退かなかった。記録も、封印も、遺書も、今夜ここで失わせるわけにはいかない。 短い乱戦のあと、封緘室の床には灰と血と破れた黒布が散っていた。 Red Hood は荒く息をつく。肩も腕も重い。だが、戦う前とは心の揺れ方がもう違っていた。 女王は倒れていなかった。文書も、遺書も、封印板も無事だ。 近衛隊長が膝をつく。 「陛下、ご無事で」 「おまえたちもよく持ちこたえました」 女王は短く応じ、それから Red Hood を見た。 「……おまえも」 その一言が、胸の奥へまっすぐ届く。 Red Hood は血のついた手で、そっと王命書を握り直した。 「おばあさま」 「何です」 「わたし、やっと分かりました」 声はまだ若かった。けれど、そこに昨夜までの迷いだけではない硬さが混じっている。 「母は、わたしを守るために黙っていたんじゃない」 「わたしが自分の足で歩くために、未完成のまま残したんですね」 女王は静かに頷いた。 「ええ」 「おまえの母は、未来を信じていました」 「おまえが、自分の意志で Scarlet Hood へ辿り着く日を」 封緘室の外、ずっと遠くから狼の遠吠えが響いた。一声ではない。次の夜を告げるような、低く長い群れの声。総攻勢の前触れ。王都の残り火へ、牙を研ぐ音。 近衛の一人が、扉の外から小さな布片を拾って戻ってくる。灰黒の布。その裏に、焼き鏝みたいな文字が刻まれていた。 女王が受け取り、読む。 「次は王冠そのものを噛み砕く」 「赤ずきん、おまえはまだ嘘を守るのか」 Sly Wolf からの使い文句だった。姿は見せず、言葉だけでこちらの心を噛みにくる。狼らしいやり方だ。 だが Red Hood は、もう前の夜のようには揺れなかった。嘘かもしれない。完全な真実ではないかもしれない。それでも、守らねばならないものがある。母がそう選んだように。そして自分もまた、選ぶのだ。 彼女は Basket を抱える。重さは変わらない。だが今は、その意味が前よりはっきりしていた。 これは母の棺ではない。 母の遺した半分の誓いだ。 未完の封印。 未完の継承。 未完の赤。 その全部を、最後まで届かせるために。 Red Hood は遠吠えの響く外縁をまっすぐ見た。 母の赤は、もう過去ではなかった。それは今、彼女の中で次の夜を迎える火となり、灰狼の王へ届く残り半分の誓いになっていた。


