昭和七年 二月 朝は曇り、空気冷たい。 一面に「上海戦激烈」。 海軍陸戦隊○○路付近で交戦、砲艦○○号、師団番号まで載る。 電車で新聞を広げた男らが、 「英米はどう動く」「租界危ない」と声高い。 私は遠い国のことのように聞こえた。 昼、寄席。白粉の匂いわずかに、人々は笑う。 雷門近くの甘味処で汁粉。 娘の半襟は桃色、湯気が立ち、餅がふくらむ。 紙の上には砲火と師団名、 私の前には湯気と甘味。 騒ぎと静けさが、同じ日にあった。 ⸻ 昭和七年 四月 「第○師団 淞滬郊外に陣地拡張」 「砲艦より艦砲射撃」 「英米海軍警戒態勢」 茶屋で老人が、 「今度は南京まで押すそうだ」と語る。 午後、歌舞伎座『一谷嫩軍記』。 白粉の匂いは濃く、幕間に鯛味噌の弁当。 油じみの紙を眺めながら食す。 外に出ると夕風はやわらかく、 木挽町の提灯が濡れた路面に長く揺れていた。 砲声の文面に反して、 目の前には絹の衣装の光。 ⸻ 昭和八年 三月 「熱河占領」「飛行隊爆撃」「堡塁崩る」。 砲兵や騎兵の進路図まで添えられている。 喫茶に若い人たち。 「北支掃討近い」「ソ連はどう出るか」と声を交わす。 私は茶の湯気を見ていた。 庭に出る。沈丁花の白いつぼみが光り、香りがふくらむ。 影が土に落ちる。 部屋に戻り、硯に水をさし、ゆっくり墨をする。 黒が紙に沈み、障子の影が畳に揺れた。 外は熱河戦線にぎやか、 中は墨と沈丁花の息。 春と戦が、同じ場所に影を落とす。 ⸻ 昭和十二年 七月 「盧溝橋にて戦端開く」。 「○○方面軍進む」「城陥落」「飛行隊出動」。 地図には河と町の名が多い。 喫茶で若者たちが、 「動員近い」「○○連隊善戦」と声を上げる。 私は返さず、席を立った。 夜、窓に黒布。灯りはひとつ。 夕飯は白飯、味噌汁、きゅうりの漬物。 猫が障子を押し入って、湯のみのふちをのぞく。 あかりが揺れ、部屋は静か。 戦線は地図の上でのび、 卓には飯と猫。 外には戦の音、 内はただ薄明かりの夜。


