(車内の奥で、小さなチャイムが鳴る。さっきの発車ベルに似ているが、もっと遠く、もっと澄んでいる) 車内アナウンス 天環線はまもなく、外縁上昇軌道へ入ります。 観覧をご希望のお客様は、後方三号車・星窓区画をご利用いただけます。 旅人 ……観覧をご希望してない人は? 少女 ここにいます。 旅人 そうだね。 僕のことだね。 少女 でも、行きますよね。 旅人 行かない理由を探してる。 少女 見つかりました? 旅人 窓が大きい。 少女 行く理由ですね。 旅人 違う。 危険を知らせる重要情報だよ。 少女 でも、見たいんですよね。 旅人 ……少しだけ。 少女 少しだけなら、三号車です。 旅人 君、案内が上手いね。 少女 天環線に乗ったら、少し得意になりました。 (ふたりは席を立つ。連結部の扉が開くと、足元の震えがほんの少し軽くなる。車輪の音はまだ聞こえるが、どこか遠い。まるで列車が、線路の上を走ることを少しずつ忘れていくようだった) 旅人 今、床がふわっとした。 少女 しましたね。 旅人 認めるんだ。 少女 はい。 でも、落ちてはいません。 旅人 それを安心材料にしていいのかな。 少女 今のところは。 旅人 雑だなあ。 (後方三号車は、さっきの車両より少し古い造りをしていた。木目の壁、真鍮の手すり、赤い背もたれ。窓は大きく、雲海と星空が一枚の絵のように広がっている) 少女 ここ、綺麗です。 旅人 綺麗だけど、窓が大きすぎる。 少女 見やすいです。 旅人 見えすぎるんだよ。 (ふたりは向かい合うようではなく、窓際の長い座席に少しずれて腰を下ろした。少女は前の席で窓に近く、旅人はその後ろ、背もたれの陰に半分隠れるように座る) 少女 そこでいいんですか? 旅人 ここなら、見ようと思えば見えるし、 見ないと思えば見ないで済む。 少女 便利な場所ですね。 旅人 臆病者には、角度が大事なんだ。 少女 じゃあ、私はここで見ます。 旅人 うん。 君は代表で見ていて。 少女 代表ですか。 旅人 僕の分も。 少女 では、報告します。 雲がすごく下にあります。 旅人 そういう報告はいらない。 少女 街の光が、さっきより小さいです。 旅人 それもいらない。 少女 星の線が、進行方向に伸びています。 旅人 ……それは少し聞きたい。 少女 聞きたいんですね。 旅人 見るのは怖いけど、知りたいんだよ。 少女 わがままですね。 旅人 人間はだいたいそうだよ。 (旅人は視線を落としたまま、鞄の中から小さなノートを取り出す。掌に収まるほどの、切符帳のような古いメモ帳だった) 少女 それ、何ですか? 旅人 保険。 少女 保険? 旅人 怖い時に、手を動かしていると少しだけましになる。 少女 何を書くんですか? 旅人 書くんじゃなくて、描く。 (旅人は短い青色の鉛筆を取り出す。芯の先は何度も削られていて、持ち手の木肌に薄く青が染みていた) 少女 青い鉛筆。 旅人 これしかなかった。 少女 本当に? 旅人 ……たぶん。 (少女は少し笑う。旅人はそれをごまかすように、窓の外を一瞬だけ見る。すぐに目を伏せ、ノートへ線を引く) 旅人 うわ、だめだ。 見た瞬間、足の裏がいなくなった。 少女 でも、描いてます。 旅人 見た分だけ描く。 それ以上は見ない。 少女 少しずつ見るんですね。 旅人 少しずつなら、怖さも分割できる。 少女 分割払いみたいです。 旅人 高所恐怖症にも生活の知恵があるんだよ。 (青い線が、小さなノートの上を走る。雲海の縁、遠い街灯り、星の流れ。旅人の手は震えているのに、線だけは不思議なほど迷わなかった) 少女 上手ですね。 旅人 ただの落書きだよ。 少女 でも、さっきの空と同じ形をしています。 旅人 見たからね。 少女 まだ見えていないところも、描いてませんか? (旅人の手が止まる) 旅人 ……そう見える? 少女 はい。 窓の外の光が、まだそこまで曲がっていないのに、 ノートではもう曲がっています。 旅人 先に手が動いたんだと思う。 少女 そんなこと、ありますか? 旅人 あるよ。 たぶん。 少女 たぶんが多いですね。 旅人 今は、たぶんで走ってる列車に乗ってるからね。 (少女はノートを覗き込もうとして、少し身を乗り出す。旅人は慌ててノートを胸に寄せる) 少女 隠しました。 旅人 まだ途中だから。 少女 途中なら、なおさら見たいです。 旅人 途中を見られるのは、完成を見られるより恥ずかしい。 少女 どうしてですか? 旅人 間違いが、そのまま残ってるから。 少女 でも、旅も途中ですよ。 旅人 ……君は本当に、逃げ道を塞ぐのが上手いね。 少女 塞いでません。 窓を開けてるだけです。 旅人 列車の窓は開けないでほしいな。 (少女は笑う。旅人も少しだけ笑う。しかしすぐ、窓の外の光が変わる。雲海が急に遠くなる。地上の灯りは、もう街ではなく、暗い布に縫い込まれた金の糸のように見えた) 車内アナウンス 重力解放まで、あと十秒。 お座席のまま、窓の外をご覧ください。 地平線が、昇ります。 (数字の読み上げはない。ただ、窓枠の光が十回、静かに脈打つ) 旅人 ……来た。 少女 はい。 旅人 やっぱり、ちょっと見ないとだめかな。 少女 見なくてもいいですよ。 旅人 え? 少女 怖いなら、無理に見なくてもいいです。 私が見ますから。 旅人 代表だから? 少女 はい。 でも、あなたが描くなら、 あなたも少しだけ見た方がいいと思います。 旅人 それは、なかなか厳しい代表だ。 少女 絵は、見ないと描けません。 旅人 ……そうとも限らない。 少女 え? 旅人 いや、今のは忘れて。 (少女は旅人を見る。旅人はノートに目を落としている。青い鉛筆の先が、窓の外の光より少し早く、弧を描いていた) 少女 あなたは、前にもこの景色を見たことがあるんですか? 旅人 ないよ。 少女 でも、知っているみたいに描いてます。 旅人 知らない。 たぶん、知らない。 少女 たぶん。 旅人 ……本当に、知らないはずなんだ。 (十度目の光。音が消える) 旅人 ――あ。 (車体がふっと軽くなる。落ちるのではない。支えを失ったのでもない。ただ、線路に預けていた重さを、空へ返したようだった) 少女 離れました。 旅人 今? 少女 はい。 旅人 線路から? 少女 はい。 旅人 ……音がしない。 少女 でも、進んでます。 (窓の外で、地平線が下からゆっくり持ち上がる。雲海はもう足元ではなく、遥か下に広がる白い大陸になっていた。星の光が、進行方向へまっすぐ流れていく) 旅人 本当に、地平線が昇ってる。 少女 はい。 旅人 雲が……遠い。 少女 さっきまで近かったのに。 旅人 遠くなると、少しだけ怖さが変わるんだね。 少女 どう変わりますか? 旅人 落ちそうで怖いんじゃなくて、 戻れなさそうで怖い。 少女 戻りたいですか? 旅人 わからない。 少女 じゃあ、まだ決まってません。 旅人 君は本当に、それが好きだね。 少女 はい。 まだ決まっていないものは、 これから名前をつけられますから。 (旅人は窓の外を見る。今度は目をそらさない。手元のノートには、青い線で描かれた雲海と、その上を離れていく天環線の軌跡があった) 少女 その絵の名前は? 旅人 ……まだない。 少女 つけないんですか? 旅人 名前をつけると、少し本当になる気がする。 少女 本当になったら、困りますか? 旅人 困るかもしれない。 少女 じゃあ、仮の名前にしましょう。 旅人 仮ならいいの? 少女 はい。 旅も、最初は仮みたいなものです。 旅人 じゃあ…… (旅人は青い鉛筆で、ノートの隅に小さく文字を書く。少女には、その文字がよく見えない。ただ、最初の一文字だけが、少しだけ読めた) 少女 リ……? 旅人 見ないで。 少女 今、名前を書きました? 旅人 絵の名前だよ。 少女 本当に? 旅人 ……たぶん。 少女 また、たぶん。 旅人 便利なんだよ、たぶんは。 (車内の奥で、静かなチャイムが鳴る) 車内アナウンス 軌条接触、消失。 天環線は現在、星海航路へ移行しました。 この先、揺れは少なくなります。 ただし、心が大きく揺れる場合がございます。 少女 心が揺れる場合、だそうです。 旅人 もう揺れてるよ。 少女 怖くて? 旅人 それもある。 少女 それ以外も? 旅人 ……自分が描いた線の上を、 この列車が走っているように見えた。 少女 それは、怖いですか? 旅人 怖いよ。 高いところより、ずっと。 少女 どうして? 旅人 知らないはずのものを、 知っているかもしれないと思うのは怖い。 少女 でも、少し自由にも聞こえます。 旅人 君が言うと、何でも少し自由になるね。 少女 あなたが描くと、知らない景色も少し知っている場所になります。 旅人 ……そうかな。 少女 はい。 だから、その絵、なくさないでください。 旅人 ただのメモだよ。 少女 でも、天環線が通ったあとが残っています。 旅人 線路じゃなくて? 少女 はい。 今度は、あなたの青い線です。 (旅人は返事をしない。ただ、小さなノートを閉じずに、もう一度だけ窓の外を見る。雲海は遥か下に沈み、星の灯りと地上の灯りの区別はもうつかなかった) 旅人 ……少しだけ、描けそうな気がする。 少女 何をですか? 旅人 まだ決まっていないもの。 少女 それなら、きっと旅に向いてます。 旅人 僕が? 少女 はい。 怖がりながらでも、描いているので。 旅人 怖がってるの、ばれてる? 少女 すごく。 旅人 じゃあ、ついでに見栄もばれてる? 少女 少し。 旅人 最悪だ。 少女 大丈夫です。 怖い人が描いた線の方が、 たぶん優しいです。 旅人 また、たぶん。 少女 便利なんですよ、たぶんは。 (ふたりは少しだけ笑う。天環線は、最後の軌条を後ろに置き、星海航路へ入っていく。小さなノートの上では、青い鉛筆の線がまだ乾かない光のように残っていた)


