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The Window Has Not Decided Yet

天環線が雲海の駅を離れ、車窓の向こうで地上の光がゆっくり遠ざかっていく。 空はまだ夜になりきっておらず、夕暮れと星の境目が揺れている。 少女は窓の外を見ていた。 隣の席の旅人は、窓を見ないようにしながら、けれど何度も見ようとしていた。 旅人 ……高い。 これはもう、完全に高い。 少女 さっきから同じこと言ってます。 旅人 同じ高さじゃないからね。 言うたびに、ちゃんと更新されてるんだよ。 少女 ふふ。 高所恐怖症って、忙しいんですね。 旅人 笑いごとじゃないよ。 僕は今、かなり真剣に後悔してる。 少女 でも、乗ったんですよね。 旅人 乗ってしまったんだよ。 発車ベルの音が、ちょっと良すぎた。 少女 それは仕方ないです。 いい音が鳴ったら、乗ってしまいます。 旅人 君は無邪気だなあ。 少女 無邪気、ですか? 旅人 うん。 宇宙行きの列車に乗ってるのに、遠足みたいな顔してる。 少女 遠足も、宇宙も、まだよく知らないので。 たぶん、似たようなものです。 旅人 いや、だいぶ違うと思うよ。 少女 でも、お弁当を持って、知らない場所へ行くんですよね。 旅人 ……まあ、そこだけ聞くと似てるけど。 (車窓の外、雲の切れ間から地上の灯りが小さく見える) 少女 見てください。 街が、こぼした砂糖みたいです。 旅人 見たいけど、見たら足の裏が変になる。 少女 足の裏? 旅人 高いところにいると、足の裏が自分のものじゃなくなるんだよ。 少女 変なの。 旅人 変じゃない。人間の防衛本能だよ。 少女 じゃあ私は、まだ防衛本能が遅刻してるのかもしれません。 旅人 そのまま来ない方が幸せかもしれない。 少女 でも、少しは怖いです。 旅人 え、怖いの? 少女 はい。 だって、行き先を知らないので。 旅人 ……知らないの? 少女 知りません。 天環線に乗れば、どこかへ行けるって聞いただけです。 旅人 それで乗ったの? 少女 はい。 旅人 無邪気というか、豪胆というか……。 少女 でも、あなたも乗ったじゃないですか。 旅人 僕は……成り行きと音楽と、少しの見栄で。 少女 じゃあ、同じです。 旅人 同じかなあ。 少女 同じです。 ちゃんと理由がわからないまま乗った人は、同じ旅の人です。 (少し沈黙。車内の灯りが一段淡くなる) 旅人 こういう列車の話、昔読んだ気がする。 星の川を渡るとか、銀河の向こうへ行くとか。 黒い列車で、遠くまで行く話とか。 少女 どんな話でした? 旅人 覚えてないんだよね。 ただ、読んだあとに少し寂しかったことだけ覚えてる。 綺麗なのに、ずっと胸の奥が静かになる感じ。 少女 結末も? 旅人 覚えてない。 少女 じゃあ、いいですね。 旅人 いいの? 少女 はい。 結末を知らないなら、今から読めます。 この窓で。 旅人 ……それは、なかなか良いことを言う。 少女 今、思いつきました。 旅人 名言っぽかったのに。 少女 名言って、たぶん最初は思いつきです。 旅人 なるほど。 君、やっぱり無邪気だけど侮れないな。 少女 侮らないでください。 私はまだ、何も知らないだけです。 旅人 それ、強い言葉だね。 少女 強いですか? 旅人 うん。 何も知らないって、本当は怖いことだけど、 君が言うと、少し自由に聞こえる。 少女 じゃあ、あなたは何を知ってるんですか? 旅人 高いところは怖い。 少女 それだけ? 旅人 あと、怖くても見たい景色がある。 少女 なら、十分です。 旅人 十分かな。 少女 はい。 旅の最初に知っていることは、そのくらいでいいと思います。 (車内アナウンスが流れる) 車内アナウンス まもなく天環線は、外縁上昇軌道へ入ります。 お座席のまま、窓の外をご覧ください。 ここから先、空は進行方向へ変わります。 旅人 待って。 今、“空は進行方向へ変わります”って言った? 少女 言いましたね。 旅人 意味がわからない。 少女 私もわかりません。 旅人 わからないのに、そんな嬉しそうな顔する? 少女 だって、わからないことが始まるんですよ。 旅人 ……僕は今、わからないことに安全確認を求めたい。 少女 じゃあ、私が確認します。 旅人 できるの? 少女 はい。 (少女が窓に顔を近づける) 少女 綺麗です。 安全です。 旅人 それは安全確認じゃなくて感想だよ。 少女 でも、今のところ落ちてません。 旅人 雑だなあ。 少女 旅って、最初は少し雑なくらいがいいです。 全部きれいに決まっていたら、ただの予定になります。 旅人 予定じゃなくて、旅。 少女 はい。 だから、まだ決まってなくていいんです。 私も、あなたも、この列車も。 旅人 列車まで? 少女 はい。 天環線も、走りながら行き先を思い出しているのかもしれません。 旅人 それは困るな。 運行管理的にはかなり困る。 少女 でも、物語的には素敵です。 旅人 ……そこは否定できない。 (旅人は少しだけ窓を見る。雲海の端がほどけ、星の光が線路のように伸びている) 旅人 少しだけ、見えた。 少女 何がですか? 旅人 わからない。 でも、たぶん……先。 少女 じゃあ、合ってます。 旅人 何が? 少女 この列車に乗ったことです。 旅人 まだ早いよ、判断が。 少女 早くていいんです。 あとで間違ってたら、また言い直せばいいから。 旅人 君のそういうところ、旅に向いてるね。 少女 あなたも向いてます。 旅人 僕が? 少女 怖いのに、まだ降りたいって言ってないです。 旅人 ……もう降りられないからね。 少女 それでも、見ました。 旅人 少しだけね。 少女 少しだけで、十分です。 宇宙は逃げませんから。