
# 《零 ~記憶の原点~》 ## 幕間 名前のない鼻歌 極地基地の夜は静かだった。 外では、もう長い間、雪が降り続いている。 整備室に残っているのは、工具が時折金属に触れる、小さな音だけだった。 アドリアンは俯いたまま、鈴の右腕の関節を調整し直していた。 「動かしてみて。」 鈴が腕を上げる。 手首を回す。 止める。 そして、もう一度元に戻す。 「異音、七十三パーセント減少。」 「数字を聞いてるんじゃない。」 アドリアンは顔を上げなかった。 「どうだ? 前より良くなったか?」 鈴は二秒ほど黙った。 もう一度、手首を回してみる。 「……さっきより静か。」 「なら、よし。」 彼は再び工具を手に取った。 カチ。 カチ。 締める。 確認する。 もう一度、締める。 いつからだろう。 彼の口から、小さな音が零れ始めていた。 「♪ らら……ららら……」 ほんの短い旋律。 たった数音だけ。 鈴が顔を向けた。 「アドリアン。」 「ん?」 「歌っています。」 彼の手が一瞬止まった。 「俺が?」 「はい。」 「前にどこかで聴いたんだろうな。」 「曲名は?」 「忘れた。」 アドリアンは、そのまま作業を続ける。 外す。 確かめる。 回す。 固定する。 「♪ らら……ららら……」 旋律が、また戻ってくる。 いつも、ほとんど同じところで。 まるで彼の手そのものが、そのリズムを覚えているように。 鈴は彼を見つめていた。 「どうして歌うのですか?」 「分からない。」 「理由は?」 「ない。」 鈴は、その答えを処理するように、少しだけ黙った。 「では、必要ありません。」 アドリアンは小さく笑った。 「そうだな。」 工具が再び回る。 カチ。 「必要はない。」 カチ。 「でも、今は気分がいいんだ。」 鈴は何も答えなかった。 しばらくして。 彼女の指が、作業台の端を小さく一度叩いた。 もう一度。 ちょうど、あの旋律のリズムに重なるように。 アドリアンは気づかなかった。 窓の外では、雪が降り続いている。 整備室では、一人が修理を続け、 もう一人が、静かにその音を聴いていた。 その時は、まだ誰も知らなかった。 名前もなく、 用途もなく、 記憶しておく必要さえないと思われた、この僅かな音が―― **この基地よりも、長く残ることを。**

