
『日常』-メインストリートからの下車- 【序文】 空白の時間、色眼鏡のない視線の先の景色。 だから、オチなんてものもありませんが、 これはこれで貴重な時間だと思います。 『日常』 正午前に終わってしまったランチ。 午後は、まるまる自由時間。 電車を使えば三十分もかからずに帰宅できる。 だけど、かつてのわたしなら、 この空白を埋めるために、 カフェにでも滑り込んで、パソコンを開いただろう。 相手先の終業時間を気にしながら、メールをチェックして、 次のアポイントメントに備えた。 だけど今日は違う。 何もない、ただの空白が、 わたしに「ただ歩く」ことを許してくれる。 その事は駅までの道程に彩りを加えた。 知らない道、普段は使わない細い道、 何かがあったら良いな……。 通りを離れたここは、民家が立ち並ぶ小径。 新築と旧家が入り乱れる、ちょっと不思議だ。 新しい家族が住み始めたであろう、真新しい家。 子供たちが独立して、もう戻ってくる気配のない、ひっそりとした旧家。 二世帯住宅の玄関から、おばあさんと孫が楽しそうに出てきた。 そして、ずっと誰も住んでいない空き家。 この道には、それぞれの暮らしの時間が、 静かに流れている。 誰にも知られない、 それぞれの物語がある。 遠くに犬の吠える声、 かなづちの音、 横を抜けるパッカー車、 社名の入った白いバン、 デイケアのミニバス。 側溝から匂い立つ洗剤の香り。 わたしが子供だった頃、母が洗濯物を干すときに、いつもこんな匂いがした。 どこかで温めた味噌汁の匂い。 父が仕事から帰ってきた夜、台所から漂ってきた、あの懐かしい匂い。 醤油の焦げた匂いもする。 誰かが夕食の準備を始めたんだろう。 そんな時間だ。 生活の音と匂い。 雑踏に消えてしまう通りにはない音。 商売っ気のない食べ物の匂いだ。 ルーティンに紛れてしまった知らない生活の余韻は、 それだけで、良い一日を齎してくれた。 駅を通り過ぎる。 今日は行ける所まで歩いて行こう。 (※翌日、筋肉痛で会社を休むことになるのは、この時まだ知らない)

