人は寒さのなかで、互いの体温をたしかめるように近づく。 けれどその親密さは、暖炉の火に手をかざすことと同じで あまりに寄りすぎれば、ぬくもりではなく火傷だけが残るのではないか? ヤマアラシの針は、その事実をわかりやすく言い換えた ひとつの上品な傷の名にすぎないのかもしれない。 だが、私たちの距離を決めているのは、針だけではない。 近づくたびに、相手の存在がこちらへ染み込み こちらの像もまた、相手の温もりに混ざる。 メルロ=ポンティが身体を通して世界に触れたように 触れるということは、触れられることでもあるのだろう。 だから、痛みは外から来るのではなく、 接触そのものがもつ、避けがたい揺らぎなのではないか? ドゥニ・ディドロは考えた。 もし人間が、最初から整った器ではなく ひび割れや増殖や変質を抱えた 粘土のように書き換わる存在だとしたらどうだろう? エンペドクレスの四元素のようにもとからさだめられたものでなく 内側から別の生き物へとゆっくり変わっていく そんな怪物的な思考のほうが むしろ私たちの実感に近いのではないか? ドゥニ・ディドロは考えた。 調和とは、最初からあるものではなく 崩れを見ないふりして保っている仮の静けさなのではないか? ヤマアラシのジレンマは 近づけば刺さり、離れれば冷える、という単純な二択に見える。 けれど実際には、近づくたびに私たちは変わり 変わった私たちが、また別の仕方で近づいてしまう。 アリストテレスが形相と質料を分けたとしても その区別は、他者に触れた瞬間に崩れてしまうのではないか? 私たちは同じ「人間」を何度も生きているのではなく そのたびごとに少し違う生き物として 同じ名前で呼ばれているだけなのではないか? レヴィナスが他者の顔に倫理を見たとしても、その顔はいつも同じ顔ではいない。 愛も、善意も、理解も あたためようとするたびに別の影を落とす。 寄り添うことは、救いであると同時に その貌(かたち)を奪う霧でもあるのではないか? だから私たちは、優しさの名を借りながら 互いを少しずつ別のものへ変えているのかもしれない。 ドゥニ・ディドロは考えた。 人間とは、完成された像ではなく 接触のたびに塗り替えられる壁画のようなものではないか? ヤマアラシのように距離を誤る存在だと見るより そもそもかたちを保ちきれない、不定形の怪物だと考えたほうが 私たちの温もりも、痛みも ずっとよく説明できるのではないか。 ドゥニ・ディドロは考えた。 人は、人間のかたちをしているのではなく 変容し続けることそのものを生きているのではないか? そして、その名をまだ、怪物と呼ぶべきなのではないか?