『鏡の人魚』 古い館の 奥の部屋 帰り支度に 水が鳴る 海などない この館で 鏡の奥に 波が立つ 硝子の鱗 月をほどいて 君は静かに 泳いでいた 声をかけたら 君が振り向く 銀の魚が 名を忘れる 触れようとして 手を伸ばした 冷たい鏡が ふたりを止めた 手のひら一枚 近いのに 帰れないほど 海は深い 硝子の人魚 青銀の海で 君は誰にも 触れずに泳ぐ 硝子の人魚 鏡の向こう 僕の声だけ 水面を揺らす 硝子の人魚 届かないまま 同じ場所へと 指を重ねた 古い日記の 最後のページ 海を知らない 令嬢の夢 窓辺の絵には 青い波だけ 行けない夏が 閉じ込められていた 銀の魚は 名前を持たず 月の光を 食べて泳ぐ 君は海を 知らないままで 鏡の中の 海になった 来ないでと 君は笑った ここは朝へ 帰れないから それでも僕は 目をそらせずに 君の涙を 水面に見ていた 鏡の人魚 青銀の海で 君は今でも 誰かを待つ 鏡の人魚 僕は行くよ 君を連れ出す ためじゃない 鏡の人魚 君の海を 選ぶために ここへ来た 鏡の面が 水に変わった 初めて君の 指に触れた 銀の魚が 僕の名前を 淡い光で 運んでいく 朝の部屋には 戻らない それでも君の 手を離さない 鏡の人魚 もう泣かないで 帰れない海を 僕は選んだ 鏡の人魚 手を繋いだら 外の朝さえ 遠く澄んだ 鏡の人魚 青銀の奥で 僕らはやっと 抱擁を交わした 夜の鏡に ふたりぶんの 静かな波が 立っていた