大浦 慶 「祝言の翌日に縁を断ち、 商いの海へ独り漕ぎ出した大浦家の女戸主。 異国と渡り合い、国の夜明けを夢見る若者たちを温めながら、 栄華も失意も己の器量と呑み干した。 立ちのぼる茶の香の奥に、誰にも寄りかからず生き抜いた ひとりの人間の誇りと孤独が宿る。」 薄墨の 障子のむかふ 春の雪 枕辺に ただ立ちのぼる 青き香よ 紅引くことも 忘れはて 火の海を越え 残りたる 冷えにし蔵の 油壺 添ひ遂げられぬ 縁なら ただひとりにて 立つべしと 結びし帯の きりきりと 青き目の 異国の船の 求めとて 山また山を 分け入りぬ つゆけき谷の 茶の若葉 籠いっぱいに 背負ひつつ 夜を日に継ぎて 走りしは ただ信義ひとつの ためならむ 黒潮の 果て吹く風に 放ちたり 水のごと 流れに身をば 任すれど 澱むことなき 暮らしのまこと 高き名を 欲しとも思はず ただ巡る 日々の重荷を 細き背に 受けて立ちたる 坂の町 刀佩き 明日をも知れぬ 若人の 熱き息吹を 見守りて 飯を炊き出し 銭を貸す 「姉さん」と呼ぶ 声あれど 皆去りゆきて 夜の雨 ひとり寄り添ふ 影もなし 世の潮の 流れは早く 道は変り 預けし名さへ 泡と消ゆ 畳一枚 あれば足る 責め立てらるる 嵐にも 言ひ訳ひとつ 口にせず ただ手をつきて 礼をせり お上の紙切れ一枚、 あの日、遠い海から訪れた将軍の船の灯火 まこと、人の世の栄華など、 朝露のやうに 消えてゆくもの ……ただ、あの山の茶の香だけは、 今もこの胸に、青く、青く残つてゐる 得しものも 失ひしものも 露の宿 ただ走り抜けし 我が足跡よ 強き人ぞと 人は言へど 震ふる膝を 抱きし夜も ただ静かなる 海に抱かれ とけてゆくらむ 朝凪に 湯呑に残る 淡き緑 これで よかつたのか、どうか…… 微笑むやうに 目を閉づる ……風渡る 港の町に