まあ そう構えなさんな 夜はまだ始まったばかり 灯りはこの蝋燭ひとつ 顔が見えりゃ それでいい 怖い話はお嫌いで? ならば人の話にしましょうか 愛だの 欲だの 憎しみだの 怪異よりずっと性質が悪い 扇子をひとつ 閉じる音 呼吸の隙間へ落とす言葉 耳で聞くには近すぎる さて どこまで届きましょう 目を閉じたって構わない 見えるものだけが真実じゃない 私の声を道標に その先は――どうぞ、ご随意に 一灯一語 灯しては 輪郭の際をなぞってゆく 甘いも怖いも紙一重 どちらへ転ぶか まだ言わない 一灯一語 深くまで 耳の奥から身体の内へ 溶けているのが蝋だけか 確かめるには――まだ早い 昔あるところに、なんて そんな遠い話はいたしません 今夜 この座敷 この間合い ここに似合う話をひとつ 濡れた髪に残る雨 誰にも言えない恋の傷 枕元で笑った女 帰る家を間違えた男 怪しいものほど正直で 人は綺麗に嘘をつく だから私は語るだけ 嘘も真も 同じ声音で 肩に触れず 指も伸ばさず それでも距離は消してゆける ひとつ言葉を置くたびに 世界がこちらへ傾いてゆく 一灯一語 灯しては 輪郭の際をなぞってゆく 痛いも愛しいも紙一重 名前をつければ逃げてしまう 一灯一語 深くまで 鼓動の裏へ忍ばせる声 物語が身体を得たなら さて――誰のものになるでしょう 語る者がいて 聞く者がいる ただそれだけのことだった 炎が揺れる 影が重なる ただそれだけで――よかったはずだ けれど今夜は 次の言葉を 少しだけ惜しんでいる 終われば帰る それがこの場所の 美しい決まりだというのに 一灯一語 灯しては あなたと夜との境を消す 怖さも悦びも選ばずに この声はただ 深く潜る 一灯一語 あとひとつ 蝋燭の命が尽きるまで 最後の話を始めましょうか それとも今夜は―― 言葉を置いて ただ 聞きましょうか


